なぜ神は苦しみを許すのか?

もし神が善いなら、なぜこれほどの痛みがあるのか? 言葉で言い表しにくい場所からの問いに、声を荒げない丁寧な答え。

1 分で読了 · Envoy Mission 編集部 · 更新日 2026年5月26日

この問いを検索する人の多くは、抽象的に考えているのではありません。何かが起きたか、起きている最中で、「なぜ神はこれを許すのか」という言葉だけがその状況に合っている — そういう場所からの検索がほとんどです。だからまず最初に書いておきたいのは、そのような場所から来たのなら、このページはあなたのためのものだ、ということです。本気で受け取ろうとしています。

宗教を信じている必要はありません。これから書くのは、キリスト教という伝統が苦しみについて実際に何を主張してきたのかを、できるだけ普通の日本語で並べたものです。今までに試したいろいろなものと比べる材料として、ひとつの具体的な答えを置いておきます。判断はあなたがしてください。

いくつかの用語をまず

このページで使う言葉を先に説明します。

  • イエス (ナザレのイエス) は、紀元一世紀の地中海東岸 — 当時のローマ帝国支配下のユダヤ地方 — に生きたユダヤ人の宗教教師です。キリスト教は、彼が同時に人となった神であったと主張しています。彼は紀元30年頃、ローマ帝国によって 十字架 と呼ばれる方法で公開処刑されました。
  • 十字架 とは、その処刑のことです。当時のローマ式の公開処刑の方法でした。
  • 復活 とは、処刑されたイエスが三日後に生きているところを複数の名指しされた証人によって見られた、というキリスト教の主張です。
  • キリスト (ギリシャ語の クリストス) は、姓ではなく称号です。ヘブライ語の マシアハ (メシア) のギリシャ語訳で、「油を注がれた者」を意味します。
  • 福音書 とは、イエスの生涯を記した四つの短い伝記 — マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ — のことで、彼の弟子たちが彼の死後数十年以内に書きました。

短く、正直な答え

キリスト教には、苦しみに対するきれいな哲学的な解答はありません。代わりにあるのは、もっと奇妙で、もっと具体的なものです — 神は苦しみを説明によって遠ざけるのではなく、自ら苦しみの中に入ってきた、という主張です。

まず認めておくべきこと

このページが最初にしないことは、あなたの痛みを薄めることです。「すべてに理由がある」「いつかわかる日が来る」「あなたを成長させるためだ」 — こうした言葉は、痛みの中にいる人を孤独にしがちです。キリスト教の伝統そのものも、長く読まれてきた書物 (詩篇という150の祈りと詩の集まり) の中で、神に対する苦情、悲嘆、抗議の言葉をそのまま残しています。たとえば「神よ、なぜ遠く離れて立たれるのですか」という叫びが、聖書の中に保存されています。

これは大事な点です。痛みを言葉にして神にぶつけることは、キリスト教の伝統では「不信仰」ではありません。それも信仰の一部だと、長く理解されてきました。

苦しみの起源について — 短い説明

キリスト教の伝統は、世界がはじめから今のような状態だったとは主張しません。むしろ世界はもともと善く造られたが、人間が神から離れる選択をしたところから、自然界と人間関係の両方が壊れた、という説明をします。だから今ある苦しみのうちには、人間どうしが互いに傷つけ合うことから来るものもあれば、自然の歪みから来るものもあれば、自分自身の選択から来るものもある — その全部を「神が直接望んだもの」とは主張しません。

ただし、これは「だから神には責任がない」という意味ではありません。なぜそうした世界が許されているのか、なぜ介入されないのか、という問いは残ります。キリスト教は、その問いに対する哲学的な完璧な答えを持っているとは主張しません。代わりに、別のことを主張します。

神は痛みの外側にとどまらなかった

キリスト教の物語の中心にあるのは、痛みの外側にとどまらなかった神です。福音書の一つ (ヨハネによる福音書) によれば、イエスは友人ラザロの墓の前で泣いた、と記録されています — 数分後には彼を生き返らせると分かっていながら、です。

イエスは涙を流された。

これは聖書の中で最も短い節のひとつとして知られています。キリスト教の伝統が歴史的にこの場面を読んできたところによれば、ここで描かれているのは「死をすぐに覆せる神が、それでも友人の死の前で泣いた」という、奇妙で具体的な絵です。神は痛みを軽く見ていない、と示すために、この場面が残されている、とキリスト教徒は理解してきました。

十字架という主張

キリスト教の主張は、神は痛みについて言葉で何かを言うだけでなく、自ら入ってきた、というものです。具体的には、紀元30年頃のローマ式の公開処刑 — キリスト教徒が 十字架 と呼ぶ出来事 — で、イエスが処刑された場面に、神自身が入ったとキリスト教は主張します。

これは、たとえばこういうことです。世界に苦しみがあるのは事実で、その理由は完全には説明されない。しかし神は、その苦しみを遠くから見て指示を出す存在ではなく、人として入ってきて、不当な裁判、拷問、見捨てられ、肉体的な処刑、そしてその過程での友人たちの離反まで、すべてを経験した — というのがキリスト教の主張です。

キリスト教の伝統がこの場面に置く重さは、こうです — あなたが何を経験していても、神はその種類の経験を遠くから知っているのではない。自分のからだでそれを通ってきた。

公の根拠としての希望

キリスト教は、その上でもう一つの主張を重ねます。同じイエスが、処刑から三日後に生きているところを見られた — キリスト教徒が 復活 と呼ぶ出来事 — というのが、その主張です。これがなければ、キリスト教は単に「神も悲しんでいる」という同情の宗教にとどまったでしょう。

しかし復活が本当に起きたのだとすれば、別のことが言えます。苦しみが最後の言葉ではない、という主張に、公的な根拠が一つ与えられたことになります。これは「あなたの今の苦しみが意味を持つ」と言うのとは違います。今この瞬間の意味は、まだ見えないかもしれません。しかし、最後がそこではない、という根拠が一つある、ということです。

パウロは、ローマのキリスト教徒に宛てた手紙でこう書いています。

今の時のいろいろの苦しみは、私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

そして手紙の同じ章の終わりでこう書きます。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主 キリスト ・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

パウロ自身、何度も投獄され、最終的に処刑されたとされる人物です。安全な場所からこれを書いているわけではありません。

それで、今は?

もしあなたが今、誰かに会って言うほどではないが、しかし誰かに話したい、と感じる場所にいるのなら、チャットで話すことができます。話したことが記録に残ったり、誰かに知らされたりすることはありません。あなたの言葉で、いつでも始められ、いつでも終わらせられます。判断もされません。

もしあなたが自分を傷つけることを考えているなら、まずは「いのちの電話」(0120-783-556、フリーダイヤル) や「よりそいホットライン」(0120-279-338) に電話してください。生きていてください。話を聞く人がいます。

これは聖書のどこから来ているか

  • ローマ人への手紙 8:18 — 今の苦しみは将来の栄光と比べれば、取るに足りない
  • ローマ人への手紙 8:38-39 — どんなものも神の愛から私たちを引き離せない
  • ヨハネによる福音書 11:33-35 — イエスが友人の墓で泣いた場面
  • 詩篇 34:18 — 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」
  • コリント人への手紙 第二 1:3-4 — 苦しみの中で神から受けた慰めで、他の人を慰めることになる
  • ヨハネの黙示録 21:4 — 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる」という最後の場面

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